昭和四十三年十二月六日 朝の御理解
御理解第二十二節
「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」と。
天地金乃神様という神様の御性格というね、「天地を一目に見ておるぞ」と仰せられる神様。そこを、まず私共が対象としておる神様はそういう性格の神様。「天地を一目に見ておるぞ」と、仰せられるような神様。
だからまずそこんところが分かり、又はそこんところをいよいよ信じていく稽古がなされなきゃならんです、ね。「神は平等におかげを授けるが」ここに神様の絶対の働きというものがここに分かりますね。神様は平等におかげを授けなさる、いわゆるおかげを持っておられる神様である。病気は直しきるけれども金銭のお繰り合わせはやりきらん。人間関係はもっと他に専門の神様がござるといったようなものじゃない。おかげというおかげの全てをお渡し下さる事の出来れる神様。
ところが次に「受け物が悪ければおかげが漏るぞ」と、こう言うておられます。そのようにどのようなおかげでも下さる事の出来れる神様であり、又そのおかげを持っておいでれるところの神様である。けれども「受け物が悪ければおかげが洩るぞ」と、こう言うておられます。おかげは降るようにある。例えばお湿りがある。降るようにあっておる。例えば私共が外へ出るでしょ、お湿りがあっておる時には誰しもが濡れるでしょ。雨に濡れるです。そのようにおかげはあっておる。けれども、そのお恵みをね、受け止めるものは受け物がなからなければ受けられん。おかげは降るようにあっておる。それをどういう受け物で受けるかと。
最近、私が非常に感じます事はね、御神米を、教会にここに流して頂きましてから、御神米をここで作成させてもらいます。御本部で頂いただけでは、もう足りなくなるから。ところが、ここで御神米を作らせて頂くようになってから、御神米でおかげを頂くという人が非常に多くなった事です。もうこれは、もう本当に、所謂奇跡的なおかげですね。御神米でおかげを受けるというのは、普通信者でない者が聞いたら、お米、およねでしょう。御神紙でしょう。紙、障子紙のような紙でしょ。その紙をちぎって頂く。御神米を頂いてから頂く。小さい赤子なんかには母親が御神米を噛み砕いて、その唾のようなものを飲ましておかげを頂く。それが、もう目立って多いんです。ですから御神米を頂くというだけで、それが受け物になる場合がある訳です。いわゆる御神米の御威徳によっておかげを受ける。
ところが私、昨夜壮年部会でお話ししたんですけれどもね、けども御神米頂いたからおかげを受けたというだけではね、私はおかげは有難いけれども、それでは神様に相済まん。信心が成長しない。そこで、ここではめったに御神米を渡さない。どんなに例えばどうだと、病気だと、こう言うてもです。その病気なら病気という事によって分からせられるものがあっておかげを受けると。信心がいくらかでも、その事によって成長して、おかげを受けるというおかげの受け方。その事が受け物でおかげを受けると。
けれども、ここんところは私共は御神米でも御神紙、お神酒さんでも頂くけれどもね、それだけで例えばおかげを受けるというのは相済まん。その事と同時に、やはり信心の成長も頂かなければ駄目。只御神米を切る、御神紙を切るというだけではね。けれどもそれもやはり受け物になるんだ。お取り次を頂いて、お取り次を頂いてお願いをする事だけでもおかげを受ける。「先生、こんな訳ですからどうぞ」と。
お取り次を頂いておかげを頂く。お取り次を頂くという受け物だけでおかげを受ける。次にはお取り次を頂いて信心を分からしてもらう事によっておかげを受ける。お取り次を頂く。お取り次を願うただけでもおかげを頂く。願うと頂くとは違う。お取り次を願うておかげを頂くおかげの受け物。今度はお取り次を頂いて、お取り次を願い、お取り次を頂いて神様の心を少しでも分からして頂いて受けるおかげも、これもおかげの受け物。
御祈念力だけでも頂くおかげがある。御祈念力、一心不乱に拝む。大祓を五巻も十巻も上げる。一晩中御祈念し通す。どうぞどうぞというてお願いをする。いわゆる御祈念力だけで助かるといったような教会も沢山あるんですよ。御祈念力の強い先生のところでは助かるんです。受け物はまあだまあだ沢山ありましょうねえ、受け物。本当にお詫びにお詫びをし抜かしてもろうて神様と通い、そこからおかげの受け物が出来るんです。心の底から御礼を申し上げる、ね。「今あるを嬉しといやびまつらなば家に不幸のおこる事なし」というようなおかげすら受けられる。今月今日こうしてただ今あるということ。本当にその事が有難いとお礼を申し上げれば、そのお礼だけでおかげが受けられる。家に不幸な事等が起こる事ないとさえ言うておられる。そういう受け物。願い、お詫び、又はお礼によって受け物になる場合もある。これは、まあ皆さんも体験しとられる事ですから様々な受け物があるから、様々な受け物を私共はひとつあらゆる場合に臨機応変に、いわば駆使しておかげを受けていかなければならん。ある場合には一生懸命拝む場合もあろう。ある場合には金光様とお縋りして御神紙、御神紙だけで、御神米だけでおかげを受けなければならん事もある。ないしを頂いて心を開かせてもらう、その心におかげが頂かして、頂く事も、又大事。
いわば御用すりゃ助かるといった事ような事もあながち、あながちじゃないやはりそれも受け物。もう御用すりゃ助かる。御用すればおかげを頂く。だからその人その人によって、その人のやっぱ得手といったようなものがありますよね。教会でもそういった性格があります。甘木なんかはお礼の信心と言われておりますから、いつもお礼が中心になっとる。
例えば病気を致します。おかげを頂きましょ。そうすると初代の親先生がこういうお取り次をなさった。神様にあつういお礼ば申し上げねばならんばいち。もうそれを繰り返し繰り返しおしゃるそうです。繰り返し繰り返し聞いとるうちにですね、自分のふく?にお礼をさして頂いておる、そのお礼があまりにもお粗末であり、薄くなるのが分かるち。○○さん神様にあつういお礼ば申し上げなならんばいち。神様には手厚いお礼を申し上げなならんよと言うて教えられる。おかげ頂きましたと言うて、例えば今時分で言うなら、お神酒の一本をもってお礼に出てくる。こげなこっちゃ足らんとお礼が。ようと考えてみて御覧と、お神酒一本で足るな、あんたの頂いとるおかげが。私はお神酒が欲しいと言いよるとじゃないばい。神様に対して、あんたが頂いとるおかげはお神酒一本で足りると思うな。それでもう事すんだと思うような事があっちゃいかんばいと、言わば言わんばかりにおっしゃるんです。そんなにおっしゃらん。けれども、あつういお礼ば申し上げなならんよと言わっしゃる。それで甘木の人達は皆んなおかげを受けたんです。
だから甘木の信心は兎に角十(とう)のものが、お礼が七分とかとおっしゃる位ですからね。お礼が七分。だからおかげは、例えば私が今申しましたように様々な事によってです、おかげの受け物が頂けれる。おかげを、おかげを授けるが受け物が悪ければとおっしゃるのは、そのおかげの受け物をそのような様々な信心によって頂く事が出来るがです、そしてそれはどれでもです、私共はやはりその時その場でですね、臨機応変な頂き方をしなければならないということ。場合によっては、本当に只一心不乱の御祈念によって頂く場合もあろう。場合によっては御神米頂かしてくれ、ね。例えば怪我でもすると、例えばそんなら、さあ御神米御神米。さあお神酒さんを吹いてくれ。それでおかげを受けるんだもん。だからそれだけが必ずも低級だといったような考え方は間違いだと。
先日山口の中林さんという方がお参りをしてましたですねえ。お孫さんが、あの、目が生れつき目が見えなかったのが見えるようになったという、あの方。もう長年の信者さんです。今、その、そのお父さんにあたる方が子供の時に、あの、もう医者は死んでしもうたと言うんです、その子供さんがですね。そこの教会の奥さんがですね、その、お神酒瓶をひとつ持って来てから走ってきなさった。そして、その、もう死んだという診断の上っとる子供さんにですね、もう頭から足の先までお神酒をプッーと吹かっしゃたげな。そしたらパチッと目を開けた。それから起き上がらせてもらい現在生きておられるというようなおかげを頂いた事も、私の方ではありますというて、この前親子連れで参って来てから話しておられた。本当に有難いこつですねと言うてから、そういう体験をもっておるというんです。
そういう例はいくらもあるですよね、やはり。そげん時にはです、御理解では間にあわんです。いわゆる御神米のお徳、お神酒さんの御威徳によらして頂いておかげを受ける事もある。まあそこはその位にして私が申しますおかげを受ける為には、あらゆるいわばあの手この手というものを、やはり覚えなければいけない。いわゆるおかげを受ける為のテクニックである。
ところが次に、その「神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ」と、こうある。先日秋山さんが足を怪我された時に、私が一番初めにことづけました事がです、「秋山さん、この機会を逃しちゃいかんよ。この機会に徳を受けるとばい。」と、私が申しました事がです、もう休ませて頂いておる間に、この言葉がどの位私を有難い事にしたか、いわゆる寝ておる事も、痛い事もです、不自由であるという事も、これが皆んなお徳を受ける為の信心として有難く受けたと言うております。だからそのお徳を受けるというチャンスはそうざらにはない。そうすると何か困った事が起こってこんならんという事になるけれども、それだけでもない。私は、ここは、ままよという心はですね、例えば病人なら病気の時にもう死んだちゃよかと腹を決めてです、神様に一心にお縋りをするといったような事だけではない、これも大事。神様にもう一心にお縋りしてもう医者もなければ薬もない。私の前にある事は、もう神様にお縋りするのみだ。しかもそれはです、それは死んでも神様に不足を言うような事は申しませんというような信心。ままよという心を神様のお徳というものを十分に受けようと思えば・・・。
だから、そうゆうような事がです、なからなければお徳は受けられないかと言うと、これは言うなら難がなからなければ、困った事がなからなければ、お徳が受けられないかというと、そうゆう時にはおかげは受けやすいという事。
例えて言うならばです、ね、泉水に水がいっぱいたまっておる時に鯉が泳いどる。その鯉を取る事はなかなか難しい。けれども泉水の水が少なくなって、バチャバチャになった時の鯉ならば子供でも取りやすいようなものなんです。災難、難儀が起きてきた時には、いよいよお恵みの水というものがもう減っておる時です。ですから中の魚を取るのに取り良か時。いわゆるお徳が受けやすい時である事は間違いない。けれども、これは泉水じゃない、川に泳いでおる鯉でもですね、そんなにバタバタせんでも、その受けられる、やはりすべがあるという事。時に寒い時なんかが、鯉が、所謂鯉の掴み取りと言う。ここには鯉取りマーしゃんて言う方がおられるんです、有名な方が。この方なんかはこれが鯉の巣だといったような所、ここには鯉がおるという所に潜って入っていきなさるとね。兎に角ここを探して歩きなさるとじゃなか。じぃっと、その岩なら岩の側に、ここには鯉のおるというような所につかっていきなさる。そうすると鯉の方がね、人間の体温ですかね、暖かい所に寄ってくるそうですよ。じぃっと、そんかわりに辛抱がいる。息も長うなからにゃいけん。そしてここに寄ってくると、じぃっと両方の手で寄って来るとをじぃっと、こう抱きしめるだけなんです。だから両方に掴んで上がってきなさる。只こうこうやって掴めちから、両方に掴めるはずはないです。だから場合には、じぃっとこうやってから寄ってくるでしょうが。鯉が一匹は捕まえちから口にくわえて、そして二匹は両方にこうやってかかえて上がってきなさるような事もあるげな。してみると、そんならそこんところが出来れば容易うお徳が受けられるという事も言えるでしょうが。
私は今日はここんところをですね、ままよという心を出すという事はですね、神の徳を十分に受けようと思えばという事はですね、必ずしも何か難儀な事が起こってきた時、その難儀な事をただ受けぬいただけではなくて、それを元気な心で有難く受けてゆくというような行き方によって、もうそれこそままよという心でおかげを徳を受けていくという生き方と、日々の信心修行の中に確実にです、お徳を受ていくという事が一番大事だという事を、今日は皆さんに分かってもらいたいと思うて、後先の事をこう申しております。
秋山さんのように、例えば事故にでも会うた時に徳を受けるのぞと言うだけでは、そんなら事故に会わんならんごとなってくる、ね。だからお互いが、何時どのような事が起こってきてもです、その事を元気な心で受けれるだけの信心は、日頃しておかなきゃならないという事になる。
誰の句でしたかね、暖冬や、火葬場までの磯づたいという句がある。暖冬というのは、暖かい冬というのである。今年のような冬なんですね、暖冬。暖冬や、火葬場までの磯づたい、浜づたい、ん、浜づたいです。火葬場までの浜づたい。なかなかいい句ですね。例えば、暖冬という事は、ね、寒いはずの、寒いはずの冬が暖かい。人間は一生が修行だと、人間は一生が苦労だとさえ言われる。それを教祖は一生が修行だと、こうおっしゃておられる。その一生が修行であろうはずのところにです、何んの修行もない。いうなら温室育ちのような事ではです、もうこれは火葬場へ一直線に歩いて行く走って行くようなものだと、いうなら死を早めるようなものだと、私は、そうゆう意味にこの句を頂きと思います。この句の意味は、まだもっと他にもありましょう。けれども御理解に頂くなら、お互いが冬でも暖かいがええ、夏でも涼しいがええというような事ではね、それこそ育つものも育たないという事なんです。そうでしょうが。ところが私共の心には出来るだけ夏は涼しく、冬は暖かにと、こう思うけれどもです、そこんところをよく分からしてもらうと、冬の寒い事も有難いのであり、夏の暑い事も又有難いのであるという信心。そうゆう私は頂き方がまず出来させてもろうて・・・。
これも昨夜の壮年部会で、本当に最近は壮年部会、しんみりとした、その、まあ共励が出来る、昨夜なんかも特にそうでした。なかに永瀬さんが、体験をいろいろと発表されとりますなかにです、こういう事を一言言われた事ですねえ。「もう真心というものは、一生懸命の時でなからにゃ出るもんじゃない。」という事なんです。もう私は名言だと思った。これは自分自身が一生懸命になって、そこから生れてくる心が真心なんだ。これは本当に、あの、真心とは真心とはと腕こまねいて考えただけじゃつまらんて、ね。一心不乱に神様に打向かう。心が有難うなってくる。喜びが湧いてくる。そうゆう心で言うたり行のうたりする事こそが真心だというのである。
私は、ここで言うね、あの、「ままよという心を出さね、心を出さねば、おかげは受けられぬ」と。徳のおかげですよ、これは。身に徳を受けるというがね、どうゆ心を出さなければならないか。心を出さなければおかげは受けられんとおっしゃておられる。どういう心かという事。真心という心を出さねばならん。その真心とは、一生懸命に神様に打向こうておる時でなからなければ出るもんじゃない。あの人は真心の篤い人じゃというても、もう信心がね、もう薄れておる時に出る心は、もう真心じゃない。神様に心を一心に打向けて、いうならば冬の寒いなら寒い事が有難い。夏は暑い事が又有難いのだと分からして頂くような信心をです、身をもって出させて頂いておる時です。そこから生れてくる「心を出さねばおかげが受けられぬ」とおっしゃるのは、そうゆう心を出す事。私はそれがですねえ、私は徳を受けてゆく。言うなれば川の中に潜って行って、自分の体の体温に集まって来る鯉をそのままじぃっと抱き締めて上がってくるようなもんだと、私は思うです。泉水の中に入っておる。しかも水が減ってしまってがちゃがちゃ言いよる時に取りに行くというのは取りよか。これはお恵みの水がない時、おかげが薄うなっておる時。難儀が起こる。その難儀な事を有難いと分からして頂くような、そうゆうひとつのチャンスを逃さずに鯉を取るというような事。
「ままよとは死んでもままよのことぞ」と、こうおっしょるけれども、これは非常に悲壮に、悲壮に聞こえますねえ。死んでもままよと言うのですから。けれどもそうゆう悲壮感のあるものじゃない。実を言うたら私共がです、そうゆう例えば永瀬さんの、その言葉のようにです、一生懸命の時に生れてくるのが真心だと。その真心を以てです、ね、何かある時だけじゃない、今日もあなた任せの一日を過ごさせて頂くという事。もうこれは、ままよという心。今日もあなたにお任せしきった一日であるというのである。自分が分からせよう、自分がどうのこうのと言うのじゃない。どのような事も、このような事も、一切があなたにお任せした一日である。いわゆるそうゆう真心がでてくるでしょう、一生懸命の中から真心が生れてくるでしょう、そうゆう真心を以て今日一日を受けさして頂こうをする心なんだ。
これならばです、私は十分な徳が受けられるだろうと思う。ままよとは死んでもままよの事ぞと。本当に死ぬか生きるかといったような時でなからなければです、そうゆう度胸が出ない。そうゆう時にお徳を受けるもんだというとです、確かに悲壮になってくる。けれども日々の中にです、日々の信心生活の中に、私共が一にも神様、二にも神様、三にも神様。これが一生懸命なんです。一と二は神様、三には自分の力でなんでんという時は駄目なんです。永瀬さんの言われるのもその事なんです。一にも神様、二にも神様、三にも神様と、自分の心を神様に心を打向ける。それが一生懸命の時なんです。そうゆう一生懸命の時に生れてくる喜び、ね、それが真心なんだ。その真心をもって言うたり行のうたりする。しかもそうゆう心で、今日もどうぞあなたにお任せした一日、今日もあなたの御守護の中に、降ろうが照ろうが、その事の中にあなた任せの今日一日でありますようにというような生き方。これが私は、日々十分の徳を受けていく事の為のおかげの受け物になると、私は思うのです。
今日は天地金乃神様の御性格。天地金乃神と申す事は、天地一目に見ておるという。しかもそのおかげというのは、もう降るように下さる事の出来れる神様なんだ。それを私共が、いわゆる大地のような信心。これなら受け洩らすような事がない。大地、大地のような信心。その大地のような信心の中に、様々なおかげの受け物の事を、お話ししましたですね。
同時に今日は、そのもうひとつ向こうのお徳というおかげ。このお徳というおかげは、ままよとか、死んでもとかというような心を出さねばおかげは受けられんとおっしゃっておられるけれども、ままよとか、死んでもという事はです、ね、このような在り方の上にも、それが言えるという事を、私は川の中で川に入って鯉を取る、その例えで申しましたですね。
それは一にも神様、二にも神様、三にも神様といったような一生懸命の中から生れてくる喜び、いわば真心、それが真心。その真心をもって、今日一日はあなたにお任せした一日であるという事。それは棚からぼた餅が落ちてくるようなというとじゃない。そうゆう真心をもって今日一日を処していこうとする態勢ですかねえ。それがお徳を受けるおかげの受け物だというふうに聞いて頂いた訳ですね。どうぞ。